私的Pedia(野球編) 北海道日本ハムファイターズの歴史
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さて、今日は昨年のパ・リーグチャンピオン、北海道日本ハムファイターズの歴史について。
北海道に移転以降は地域密着の球団運営がうまくいっており、観客動員数ではホークスについでパ・リーグ2位
元々ジャイアンツファンの多い北海道という土地柄ではあったが、北海道移転と合わせて獲得した、新庄パフォーマンスや、道内での野球教室やファンイベントの開催、メディアへの露出促進などといったさまざまな活動が奏功して観客動員数は年々増加している。

そんな北海道日本ハムファイターズのここ五年の成績ですが・・・
  • 2009年:優勝
  • 2008年:3位
  • 2007年:優勝
  • 2006年:優勝&日本一
  • 2005年:5位
と、トレイ・ヒルマン監督ら首脳陣の下で森本稀哲ダルビッシュ有田中賢介といった若手が育ったこともあって、上位を争うシーズンが多い強豪チームに成長しています。

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 ここはジャイアンツタイガースなどの名門と違って、親会社ニックネームの変遷が激しい上、球団公式HPにも歴史が載っていないので、どう扱うか、非常に困るところなんですが・・・

とりあえずは、Wikiにしたがって、セネタース時代からさかのぼってみようと思います。

セネタースといえば、戦前のプロ野球にも東京セネタースが存在していたのですが、直接の関係は無いようで、このファイターズの源流となるセネタースは、1945年に戦前の東京セネタースの中心人物だった横沢三郎セネタース再興を目指し、新規にセネタースを設立したのが始まりとなります。
*資本関係などから行くと直接の関連は無いことになりますが、東京セネタースの復興を目指していたという点を考えれば、まったく無関係とはいえないので、この辺がどう解釈していいか悩みの種なんですが・・・

しかし、個人で立ち上げた球団のため、財政的に厳しく、セネタース時代は1シーズンしかありませんでした。1947年シーズンからは、東京急行電鉄に球団を売却。チーム名も東急フライヤーズと変わることになりました。「青バット」の大下弘を中心に人気を集めましたが、球団経営は厳しかったようです。

このころはチーム状況も非常に流動的で、1948年には大映が球団経営に参画、1年で撤退という自体も起こしています。

1949年オフのリーグ分裂時に、パ・リーグに加盟。

1953年には、念願の自前の駒沢球場が完成し、文京区の後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。

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1954年には、東急は球団経営を傘下の東映に委託することとなり、球団名も東映フライヤーズと変更されました。ひとまずは1972年までこの体制で続くことになります。

戦績的なトピックとしては、ジャイアンツの監督を勇退した、水原茂を1961年に監督に招聘。
翌1962年には、土橋正幸尾崎行雄の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たすと、日本シリーズでも阪神タイガースを破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。

一方、自前の駒沢球場は1964年の東京五輪のために取り壊しが決定。明治神宮野球場などを経て、結局は後楽園球場に舞い戻ることとなった。

この時期は、張本勲大杉勝男白仁天毒島章一ら強打者を擁したものの、優勝には及びませんでした。

しかし、1970年代に入り、映画産業の斜陽化とともに、親会社の東映自体の経営自体も苦しくなり、1971年に名物オーナーだった大川氏が急逝すると、東映の社長にはアンチ大川だった人物が就任し、大川色が強く、不採算だった球団を手放すことになった。

1973年からは、首都圏で不動産業を展開していた日拓ホームに球団を売却し、チーム名日拓ホームフライヤーズと改称された。

日拓ホームは低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発するなどして球団運営に様々な新機軸を試みたが、結局不発に終わる。すると、パ・リーグに将来はないと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、日拓ホームのオーナー西村は球界に嫌気が差して球団経営を放棄。わずか1シーズンで日本ハムに売却した。

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球団を買収した日本ハムは球団名を日本ハムファイターズに変更。ファイターズの命名に際しては、公募なども行われたようだが、フライヤーズの伝統を尊重して、頭文字Fを継承、かつ「駒沢の暴れん坊」のイメージとも合うということで、ファイターズを採用したといわれている。

しかしながら、優勝にはなかなか縁が無く、1980年にはルーキー木田勇の22勝(8敗)で最多勝獲得、MVP・新人王など、タイトル投手部門を独占する活躍で、優勝まで後一歩までこぎつけるも、最後は近鉄バファローズに逆転を許す。

そのオフ、優勝請負人の異名を取っていた江夏豊をトレードで獲得に成功すると、翌1981年には江夏の活躍が光り、19年ぶりのリーグ優勝を果たし、史上初の全戦後楽園球場での日本シリーズとなりましたが、日本一は惜しくも逃しました。

その後も、1988年の東京ドームオープンなどのトピックはあったものの、成績的には長く低迷期が続くことになります。

1980年代後半以降、西崎幸広田中幸雄片岡篤志小笠原道大金村暁といった好選手は輩出するものの、なかなか優勝はできず、2003年オフの北海道移転という、一大転機まで雌伏の時期が続く。

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2004年の北海道移転に際しては、東京のファンや、同市の準本拠化を計画していたライオンズからの反発もあったが何とか断行。チーム名も北海道日本ハムファイターズとあらため、地域に密着したチーム作りを目指すことになります。
ユニフォームも日本では初となる、左右非対称の斬新なデザインのものに変更。(なお、デザインには新庄剛志が深く関わったといわれています)

同年から始ったプレーオフではマリーンズとの激闘の末、進出するも1stステージでライオンズに敗退。

しかし、同年オフのドラフト会議で、東北高校のエース・ダルビッシュ有済美高校の強打者・鵜久森淳志という同年の甲子園を沸かせた2大ヒーローの獲得に成功する。

その期待に沿うように、ダルビッシュ有は球界を代表するエースへと成長。毎年のように上位進出を果たす立役者として、大車輪の活躍を見せているのは、ご承知のとおり。

鵜久森淳志のほうはまだプロでは開花できていませんが、甲子園で見せたポテンシャルの高さを考えると、何かきっかけをつかめば大ブレイクできる可能性は秘めていると、個人的には思っているのですが・・・

2006年はまさしく、新庄剛志のためのシーズンでした。4月早々に引退を発表し、それに発奮したナインは躍動、チーム防御率3.05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップでレギュラーシーズンを1位通過すると、プレーオフもホークスを下し、日本シリーズ進出。
日本シリーズも4勝1敗でドラゴンズを退け、44年ぶりの(「ファイターズ」として初の)日本一に輝く。
同年は個人タイトルも、小笠原が本塁打・打点の2冠王(打点は西武のカブレラと同数)。武田久が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。MICHEALが39セーブのリーグ新記録で最多セーブ。八木が12勝で新人王と、目覚しい活躍を見せました。

2007年は小笠原のFA移籍、新庄剛志の引退と戦力ダウンは必死の中、稲葉が自己最高の打率.334、176安打で首位打者、最多安打の2冠に輝くなどの活躍を見せ、チーム史上初のリーグ連覇を果たします。

以降、ここ数年の活躍はここで詳しく語るまでも無いでしょう。

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<永久欠番など>
過去、セネタース・フライヤーズ時代も含めて、永久欠番制度および該当者が不在であったが、2009年1月30日球団史上初めて永久欠番制定することが発表された、該当者第一号は野球殿堂入りした大社義規日本ハムファイターズ初代オーナーを100番として設定。また2009年より000の使用をやめ、永久欠番とすることも球団が決めた。

また、球界の親分こと大沢啓二氏が監督としてつけていた86番も、球団史上、他者の着用がなく、非公式ではあるが、準永久欠番となっている。
 
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author:キリ, category:プロ野球−球団史, 21:06
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