私的Pedia(野球編) 読売ジャイアンツの歴史
[PR]楽天GORA限定情報で、お得にゴルフができる!ゴルフ場予約は『楽天GORA』 [PR]
JUGEMテーマ:読売ジャイアンツ
JUGEMテーマ:プロ野球全般
 
やはり、球界の歴史を語る上でこの球団を外す事は出来ないでしょう。今回は、ジャイアンツの歴史について。
言わずもがなの、日本で最も歴史ある球団のひとつであり、21回の日本一を誇る強豪球団である。

そんなジャイアンツの最近5年間の成績ですが、
  • 2009年:リーグ優勝&日本一
  • 2008年:リーグ優勝
  • 2007年:リーグ優勝(但しCSでドラゴンズに敗退)
  • 2006年:4位
  • 2005年:5位
と、堀内監督時代に低迷はあったものの、2006年から原辰徳が監督に復帰すると、2007年からはリーグ3連覇を果たしています。
特に2008年は、私のようなタイガースファンには屈辱以外の何者でもないのですが、13.5ゲーム差をひっくり返しての大逆転優勝。

ひところは、FAや外国人を大金でかき集めてきた巨大戦力一辺倒と批判されることも多く、現在も主力急にそういった選手が多くを占めているのは事実ですが、亀井坂本松本といった若手の育成やチーム内での競争が、チーム力の底上げをしているのもまた、これまでとは違った傾向といえるでしょう。

[PR]■ゴルフ場予約サイト 楽天GORA■リアルタイムにいつでもどこでも予約可能! [PR]

 
そんなジャイアンツの創設は、1934年、2度目のメジャーリーグ選抜との対抗試合に始まります。
対抗戦後の12月、その当時の全日本選抜の選手19名で株式会社大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が創設されます。
*なお、対抗戦の報道に読売新聞が熱心であったことは事実ですが、当初から読売新聞社がオーナーだったというわけではないようです。

翌1935年、アメリカ遠征に出発する。
この時「大日本東京野球倶楽部」ではチーム名として長すぎる事からアメリカで一般的であったチームのニックネームをつけることが提案され、チーム名を「東京ジャイアンツ」とした。そして帰国後、1936年東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)へ正式改称する。これが巨人軍の始まりである。

同年7月にアメリカから帰国後は、国内各地を転戦。これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。

翌1936年からは、当時の読売新聞社の社長、正力松太郎の働きかけで、「日本職業野球連盟」も結成されリーグ戦が開幕することとなる。

[PR]■ゴルフ場予約サイト 楽天GORA■リアルタイムにいつでもどこでも予約可能! [PR]


以降、戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度のノーヒットノーランを達成した沢村、42勝をあげたヴィクトル・スタルヒン、2度のノーヒットノーランを達成した中尾碩志、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した藤本英雄、職業野球契約選手第一号であった三原脩、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王を記録した中島治康らを擁して第1次黄金時代を築いた。

ちなみに、戦前の時点では、ジャイアンツの経営に読売新聞社は参画しておらず、その参画は戦後になってからである。

太平洋戦争による中断を経て、1946年のリーグ戦最下位よりジャイアンツは参画。
1947年には読売新聞社が経営に当たる事となり、球団名を東京読売巨人軍に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。

南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰し、1949年には戦後初の優勝を飾る。

その1949年オフ、現在の2リーグ制のきっかけとなった事件が起こる。読売新聞社のライバルである毎日新聞が設立した毎日オリオンズのプロ野球参入をめぐって、球界は紛糾。

結局、読売ジャイアンツ阪神タイガース中日ドラゴンズ松竹ロビンス大洋ホエールズ広島カープ西日本パイレーツ国鉄スワローズからなるセントラル・リーグ(セ・リーグ)と、阪急ブレーブス南海ホークス東急フライヤーズ大映スターズ毎日オリオンズ西鉄クリッパース近鉄パールスからなるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が分立することになった。

[PR]■ゴルフ場予約サイト 楽天GORA■リアルタイムにいつでもどこでも予約可能! [PR]


1950年からは、水原茂が監督に就任。翌1951年からは同年に獲得した与那嶺要の活躍もあってリーグ3連覇、日本シリーズでは1リーグ時代からの宿敵南海ホークスを3年連続で降し日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。この時代を支えたのは、千葉茂川上哲治らであったが、1950年代も中盤に入ると衰えが見え始める。
それでも、1955年から1959年にわたって、リーグ5連覇を果たす。しかし、1956年〜1958年は西鉄ライオンズに、1959年には南海ホークスに苦杯をなめる。1960年には最後まで優勝争いをするも、最後は大洋ホエールズに振り切られ、同年水原監督は勇退。第二次黄金時代も終わりを迎える。

なお、この期間の終盤に、将来を嘱望されて入団したのがほかでもない、ONコンビの王貞治長嶋茂雄である。

[PR]■ゴルフ場予約サイト 楽天GORA■リアルタイムにいつでもどこでも予約可能! [PR]


1961年からは、川上哲治が監督に就任。61年、63年とリーグ制覇を果たす。
その間に、王貞治長嶋茂雄の両名が、実力・人気ともに特別な存在となっていくとともに、国鉄スワローズの大エースを1965年に獲得。

そして、1965年から、伝説のV9時代へと突入する。

この間、ジャイアンツはカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものを表した「巨人、大鵬、卵焼き」は流行語となった。また、同時期に連載が開始した漫画『巨人の星』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。

このV9の間、最優秀選手賞を、王貞治が5回、長嶋茂雄が3回獲得しており、彼らの活躍にやはり注目は集まるものだが、川上監督牧野ヘッドコーチのもとで、緻密な野球が実践されたのも効果的であった。
長嶋以外にも、金田正一城之内邦雄堀内恒夫高橋一三渡辺秀武などの投手や、森昌彦捕手土井正三黒江透修内野手柴田勲末次利光高田繁外野手など質の高い選手がそろっていたからこそ、なしえた偉業であることは間違いない。

しかしながら、OBの広岡達朗曰く、「V9時代途中あたりから、歯の浮くようなおべんちゃらを言うだけで、指導者の職責を果たしているといえるコーチがいなくなっていった。この頃から、選手を育てる、という方針はなくなりつつあった」とある通り、V9時代後半は長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、前半よりも苦戦することが多くなった。

そしてついに、1974年、中日ドラゴンズに敗れ、V9時代は終わりを告げるとともに、川上哲治が勇退。長嶋黒江も現役を引退し、ON時代にも終焉が訪れる。

しかしながら、すごいのは1950年から1974年の25年間をたった二人の監督で率いていたという、今では考えられないことと、その25年の間で19回もリーグを制覇していること。
現代ほど優秀な人材が多くなかったことや、巨人にどうしても戦力が集中するといったことはあったにしても、とんでもない戦績ですよね。

[PR]■ゴルフ場予約サイト 楽天GORA■リアルタイムにいつでもどこでも予約可能! [PR]


1975年からは、長嶋茂雄が監督に就任するが、同年には球団史上初の最下位、全球団に負け越した上に9月には11連敗という球団史上最悪の連敗を喫し、挙句の果てには広島カープに後楽園球場での胴上げを許してしまう。
翌年こそリーグ優勝は果たしたものの、プレー以外のところで世間を騒がすことが多くなってしまっている。

その際たるものが1978年の『江川事件』だろう。

結局、第一次の長嶋茂雄政権ではリーグ優勝1回に終わり、1980年には事実上の解任となった。この動きに対してファンは激怒し、読売新聞・報知新聞(スポーツ報知)の購読打ち切りを行うファンが続出した。

同年、王貞治もついに現役を引退してしまう。

1981年からは藤田元司が監督に就任すると、江川卓西本聖定岡正二加藤初ら先発4本柱で投手王国を形成し(江川20勝・西本18勝・定岡11勝・加藤12勝)、4年ぶりのリーグ制覇、日本シリーズで8年ぶりの日本一を達成する。

1982年も0.5差のリーグ2位、1983年は松本匡史が盗塁王(このときの盗塁76はセリーグ記録)、原辰徳が打点王(103打点)を獲得するなどしてリーグ優勝するが、日本シリーズでは西武ライオンズとの激闘の末、3勝4敗で敗れる。このときの日本シリーズは、サヨナラ勝ちが3度あり、日本シリーズ屈指の名勝負と言われている。なお、テレビのプロ野球中継で現在までで最も視聴率が高かったのは第一次藤田監督時代(平均視聴率25.5%)だった。

[PR]■ゴルフ場予約サイト 楽天GORA■リアルタイムにいつでもどこでも予約可能! [PR]


1984年からは、王貞治に監督を禅定し、5年間指揮を取るが、リーグ優勝1度に終わり、日本一も果たせなかった。1988年は2位ではあったが、中日ドラゴンズに12ゲーム差をつけられたことが決定的となり、この年限りで、王貞治は引責辞任。翌1989年からは再び藤田元司が指揮を執ることになった。

すると、1989年は見事に斎藤雅樹(20勝・防御率1.62)、桑田真澄(17勝・防御率2.60)、槇原寛己(12勝・防御率1.79)と三本柱を中心に投手王国を形成し、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。
このときの語り草は、なんと言っても日本シリーズでの近鉄バファローズ加藤哲郎投手の「巨人はロッテよりも弱い」発言(もっとも、直接そういったわけではなく、インタビュアーの誘導尋問だった節もあるのだが・・・)で、それまで眠っていた原・駒田の主砲が奮起。3連敗からの逆転日本一となった。

翌90年も、2年連続20勝した斎藤を筆頭に桑田宮本和知(各14勝)、木田優夫(12勝)、香田勲男(11勝)と5人が二桁勝利を挙げ、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチームでペナントをリードし、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランにより史上最速で2位広島とのゲーム差が22という圧倒的な強さで2年連続のリーグ優勝を果たす。
が、日本シリーズではまたしても、西武ライオンズの前に4連敗と惨敗を喫する。

そして、1991・1992年と優勝から見放され、藤田元司監督は勇退する。

[PR]■ゴルフ場予約サイト 楽天GORA■リアルタイムにいつでもどこでも予約可能! [PR]


1993年からは、長嶋茂雄が13年ぶりに監督に復帰し、2001年までの長期政権となる。
しかし、この時代のジャイアンツはまさしく、大補強時代であり、必ずしもファンの支持を受けていたかというと疑問が残るところである。

しかしながら、この時代は松井秀喜がチームを引っ張った時期ともオーバーラップする。
また、1994年の中日ドラゴンズとの10.8決戦や、1996年の「メークドラマ」、2000年のON決戦など、記憶に残るシーズンが多い。このあたりは「記録より記憶に残る男」らしいといえば、そういうことになる。
とくに2000年のリーグ優勝を決めた試合などは、0-4で迎えた9回裏に江藤満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡サヨナラ本塁打を放ち優勝を決めるという、絵に描いたようなドラマチックな幕切れであった。

2001年、ヤクルトスワローズとの優勝争いに敗れると、長嶋茂雄は勇退し終身名誉監督となる。

2002年は原辰徳が監督に昇格。2001年に不調だった投手陣と立て直し、全チームから勝ち越してのリーグ優勝を飾ると、日本シリーズでは松坂大輔を要する、因縁の相手西武ライオンズと対戦。
積年の鬱憤を晴らすかのように選手たちが躍動し、4連勝で日本一に輝く。

[PR]■ゴルフ場予約サイト 楽天GORA■リアルタイムにいつでもどこでも予約可能! [PR]


しかし、翌2003年は、シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝したタイガースに15.5ゲーム差をつけられた。そして9月26日、原監督は責任を取り辞任した。辞任をするにあたってのセレモニーも行われなかった。
*逆に甲子園での対タイガース最終戦で、同年限りで勇退を発表したタイガース星野監督から花束を贈呈され、これが実質退団セレモニーとなってしまった。

辞任に関して、人気のある原監督渡邉恒雄オーナーとの確執がマスメディアに報じられ、それに失望した巨人ファンが離れる要因となり、この混乱が原因で川相昌弘がコーチ就任要請を辞退して中日に移籍した。
*ちなみに私も原辰徳が現役であった1995年までは完全にジャイアンツファンであったのだが、その後の金に任せた大補強には嫌気がさしており、この年の渡邉恒雄の暗躍による原監督の解任騒動で、完全に嫌気が差し、タイガースファンに寝返ったという経緯もある。

2006年に原監督が復帰を果たすが、補強戦力中心のチームには限界を感じ、徐々に若手の育成・抜擢も行ってきた。
その象徴ともいえるのが、育成選手から這い上がり、主力の座を射止めた山口鉄也投手松本哲也選手であり、越智大祐投手亀井義行・坂本勇人選手などの生え抜き選手たちである。
そんな選手たちの活躍もあり、2007年からはリーグ3連覇、2009年には7年ぶりの日本一を勝ち取っている。

2003年以降、セ・リーグはジャイアンツドラゴンズタイガースで優勝を分け合う3強時代になっていたが、タイガースがここ数年優勝できずにいるのは、まさしくジャイアンツのような大補強頼みのチーム編成に陥り、若手の底上げが無いため。

ジャイアンツの長い歴史を見ても分かるとおり、大型補強頼みでは一時的な強さは得られても、後が続かない。黄金時代を気づくにはきちっとした選手育成があってこそだというのを、改めて思い知らされるばかりである。

[PR]■ゴルフ場予約サイト 楽天GORA■リアルタイムにいつでもどこでも予約可能! [PR]


<永久欠番など>
ほとんどの選手は、わざわざ説明不要の大選手なので、多くは語りません。

1:王貞治
世界のホームラン王。本塁打世界新記録(868本)の功績を称え、決定。

3:長嶋茂雄
いわずと知れた、ミスタージャイアンツ。記録より記憶に残る男。
もっとも、記録も偉大だからこその永久欠番ではある。

4:黒沢俊夫
こちらはご存じない方も多いだろうが、球界初の永久欠番はこの人である。
俊足の外野手で、歴代2位となる通算10個のホームスチールを成功させ、一部野球ファンからは「ホームスチールの神様」と呼ばれている。
現役中に腸チフスで死去するという、悲運の選手である。
黒沢の欠番については、ほとんどの主力選手を軍隊に取られた戦時下のジャイアンツに球団史上初のトレードで移籍後、4番を打ち、戦後も病に倒れるまで5番・6番打者として活躍した本人への感謝の意として千葉茂を中心とする選手有志が提案し、戦火に散った、伝説の大投手沢村栄治と共に欠番になった。

14:沢村栄治
太平洋戦争で戦死した、伝説の大投手。プロとしての実働はわずか5年ながら、3度のノーヒットノーランを達成するなど、黎明期の巨人、日本プロ野球界を代表する快速球投手として名を馳せた。
短い期間に数々の記録を打ち立て、大学野球全盛の時代、日本のプロ野球リーグが軌道に乗ったのは、沢村栄治の功績に負うところが多いことから、戦死後の1947年に、黒沢俊夫とともに、球界初の永久欠番に制定された。

16:川上哲治
戦前から選手として活躍し「打撃の神様」と称される。戦後は監督として、V9の偉業を達成。

34:金田正一
球界初の通算400勝の功績を称え制定。
[PR]全国約99%のゴルフ場データ収録[PR]
author:キリ, category:プロ野球−球団史, 16:24
comments(0), trackbacks(0), pookmark
Comment









Trackback
url: http://blog.kiri.versus.jp/trackback/964395
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
recommend
<広告>
安心安全なアフィリエイト